心療内科へいってきました。
担当の先生は早口でマシンガントークです。
こちらの話はゆっくり聞いてくれるし
急かされてる感じもしませんが、
集中して聞かないと何を言っているのかわからないほど。
ぼーっとしてたら置いて行かれそう。
意識をしっかり保たないとダメです。
前のクリニックでは結構ぼーっと受診していたけど
それじゃダメだなと思いました。
医療機関つながりで、見つけた記事。
こういう思い込みとか気持ちのすれ違いってありがちなこと。
心理学を勉強してると、こういう「思い込み」による
気持ちの行き違いの怖さが、改めてよくわかります。
期間(時間)限定公開らしいけど、
多くの人に、これを読んで自分の気持ちの
ゆがみに気づいてほしいと思いました。
ワクチン~云々~心臓~云々~(by 岸田奈美さんの記事。勝手にコピーしてごめんなさい)
https://note.kishidanami.com/n/nb46795774c54より
注射してもらったあと、翌日から筋肉痛や頭痛の副反応が出るかもしれないけどひとまずは市販の鎮痛剤を飲んでもいいと説明を受けた。
「出ませんように!」
わたしが言うと、ぺた、と絆創膏を貼りつけてくれた看護師さんが笑った。
「若い人は免疫力が高いからねえ、体が反応しやすいのよ」
免疫力とは、外敵から命を守るための自己防衛システムなので、エヴァンゲリオンでありガンダムであり国家錬金術師である。
翌日から、肩から上に腕が上がらなくなってしまい、Suicaをうまくピッとできず何度も改札に激突しては通勤途中のサラリーマンに背中から舌打ちされるという比較的前世の罪が軽い者が落とされる地獄を経験してしまったが、それも「わたしの生命力が作用している、いや、しすぎている」と思うことにした。
ワンピース第一巻でシャンクスが「安いもんだ……腕の一本くらい……!」とルフィをかばった、あの時の気持ちもわかる。でもさすがにシャンクスだって腕一本持っていかれた日くらいは、病院行くなり寝るなりしたと思うんだ。シャンクスに倣ってその日はトドのように寝たら、痛みは消えた。
ワクチンの副反応は、まれに重篤なショックを引き起こすとされるが、圧倒的にほとんどの人はわたしのような軽い副反応で終わる。副反応が出てしまうのは仕方がないから、できるだけ休んでほしいな、サラリーマンに背中から舌打ちされる地獄には来てはならんと思ったので、ツイートしてみた。
そしたら、なんか知らんけど、バズった。
「ワクワクチンチン」の初見インパクトが強すぎたのかもしれないが、下品なことはやめなさいと通りすがりの大人から注意されたわたしの名誉のために説明をすると、発案者は病理医ヤンデル先生であり、れっきとした「今回のワクチンは期間をあけて2回打つことがわかりやすいように」という優れた広報的戦略が含まれている。ワクワクチンチン。
いくつかあるだろうなと思っていたけど、凄まじい熱量のこもった「ワクチンは打ったらあかんで」「ワクチンを広めるような投稿はやめんかい」というお声も、たくさんいただいた。
ペンギンコラメーカーという常軌を逸したツールがあったので使ってみたけど、わたしのDM欄は瞬く間にこのような様相を呈した。
わたしとしては、打ちたい人は打ったらいいし、打ちたくない人は打たなかったらいいと思う。
打ちたくない理由には、健康上の都合、政府への不信、副反応への不安など、ここに書ききれないほどいろいろある。なにが全員にとって100%正しいかなどという答えは誰も出せない。
打って後悔した人もいるし、打たなくて後悔した人もたぶんいる。
だからわたしは、誰のためにどういう選択をすれば、どうなっても胸を張れるかだけを考えた。心臓の基礎疾患のある母、ダウン症の弟は、コロナにかかったら重篤化しやすいと先生から言われた。コロはまだしも、コロリはあかん。コロナでコロリはあかんナリ。だから家族で打つことにした。それだけ。
っていうか、それくらいしか、できないじゃんね。
選択は自由なんだから、選択した人を攻撃したり、正確かどうかわからん恐ろしい情報を突きつけたり、どちらの選択にもかかわらず対応をしてくれる医療従事者の人たちを貶めたりは、よろしくないんではと思いながら、ひとつひとつのメッセージに返信していたらボコボコにされてインターネットという東京湾に浮かぶことになってしまうので、念仏を唱えるようにスルーしていった。
ひとつだけ、スルーできなかったメッセージがあった。
一度スルーしても、二度、三度と「ご家族のワクチン接種を思いとどめてください」と送ってくる人だった。
やりとりをこうやって書いていいかとたずねたら、承諾してくれたこの人を、Aさんとする。
最初は、いやだなと思ったけど、Aさんはわたしの本も買ってくれて、noteも感想と一緒に引用リツートで紹介してくれていた。こういう言い方が良いかどうかわからんけど「ちゃんと思いのこもった言葉を使ってくださる、優しい人だな」とわたしは思った。
他の人と違って、誰が発信したかわからん恐ろしい情報や、ちょっと様子のおかしい攻撃的な言葉があるわけでもなく。
やっと生産が増えて家に届くようになったヤクルト1000を飲みながら気が大きくなっていたわたしはAさんに返事をした。
「うちはもうみんなで打つことは決めているんですが、どうしてそう思われるんですか?」
「わたしは医者や薬に騙されて、ひどい目にあいました。ワクチンは嘘です。大好きな岸田さんに同じ地獄を味わってほしくないので」
地獄、再来。
これはサラリーマン背中舌打ち地獄よりも、階層が深そうである。都営地下鉄大江戸線六本木駅の深さは誰が行っても「深すぎやろ」と言えるしベロンベロンに飲んで足がおぼつかない日の最寄り駅だったりすると死が頭をよぎるが、それと違って、こういう地獄の深さは誰でもなく本人が決める。
Aさんのツイートをさかのぼっていった。
Aさんは、旦那さんをがんで亡くしていた。
不調を感じて、病院にかかったときには「早期発見とは決して言えないけど、転移もないし、五年後生存率は悪くない。がんばりましょう」と言われ、覚悟していたけど、手術をして体調が良くなったらしい。
腕のいい先生だ、運がよかったと思ったけど、喜んだ分だけ押し寄せる揺り戻しも苦しかった。
がんが再発。先生の言うとおりに抗がん剤の治療をはじめたら、薬の副作用がひどく、旦那さんが泣いて吐いて苦しむ姿をずっとAさんは見続けていた。
「薬が効いて、腫瘍は小さくなっていますよ。期待が持てますから、がんばりましょう」
そう言われて、Aさんたちは迷いながらも、治療を続けた。でもあっという間に悪くなり、多臓器不全で人工呼吸器をつけることになった。
人工呼吸器をつけたらもう、外せなくなり、会話もできなくなって、旦那さんは亡くなられてしまった。
Aさんは先生のことを恨んでいる。先生が選んだ抗がん剤、つけた人工呼吸器のことも恨んでいる。
治療だけじゃなくて、ちょっとした話や手続きをするときも「無下にされた」ような態度をとられて、病院を恨んでいた。
その時のことをAさんは、繰り返し、繰り返しツイートしていた。まだ忘れられない、まだ納得がいかない、だれかに聞いてほしい、だれかを救いたい、その一心だった。
医師も薬も病院も信頼ができない、だからワクチンを信用しない。
それでAさんはわたしに連絡をしてきた、ということだった。
わたしがAさんとやりとりをして、ツイートを見て、いいよと言われた内容を端的にまとめただけなので、これが事実かどうかはわからない。
抗がん剤治療も人工呼吸器も、患者は医師の説明を聞いた上で、決める権利があるはずだし、医師が一字一句どういう理由でどんな説明をしたのかはその場にいないとわからないはずで。
でも、Aさんにとっては、これが真実なのだ。
それで、思い出したことがあったので、Aさんにわたしの話をした。
わたしの父も、十五年前に亡くなった。
急性の心筋梗塞で、救急車で病院に運ばれたときにはもう手遅れだった。十時間以上におよぶ手術のあと、人工心肺をつけられ、一度も目を覚ますことなく、二週間後に多臓器不全で亡くなった。
わたしが父と交わした最後の会話は、売り言葉に買い言葉だった。まさか病気で死ぬなんて思ってなかったので、思春期らしいくだらない勢いだけがある親子喧嘩だった。喧嘩にすらなってない。虫の居所が悪いわたしが、父に口汚く突っかかっただけだ。
そういう経緯だったので、つらくて、悲しくて、仕方なかった。
でも当時のわたしは、たぶん、主治医の先生を恨んでいた。
病院の待合室で座っていると、説明を受けた父の親戚が、悔しそうな顔をして言った。
「こんな病院やなかったら、浩二は助かっとった。なんで◯◯大学附属病院に移送してくれへんかったんや」
◯◯大学附属病院は、心臓外科の名医がそろっていることで有名だった。母もそこに運ばれなければ、助からなかったと言われたことがある。
「腕がよくないのに、ここで手術できるって決めた主治医が悪い」「人工心肺なんかつけたらもう病室から出られへんやんか」「こんなひどい話があるか」
猛烈に、激烈に、先生に怒っていた。
わたしは毎日、学校が終わると父の病室にきて、ベッドのそばでその日あったことを話しかけていた。もちろん返事はない。でも最後はいつも「あの時はひどいこと言ってごめんな」で締めていた。
たまに、診察にきた先生とすれ違うことがあった。
先生は「こんにちは」とだけ言って、わたしから視線をそらし、忙しそうに父が繋がれている機材をチェックしていった。そのことがなぜか、つらかった。お父さんはどうですか、経過はいいですか、さっき目から涙が出てたんですけどそれって意識が戻るってことですか、と聞きたいことは山ほどあったけど、とてもおしゃべりできる相手ではなかった。
中学生のわたしはバカだったので、親戚の言ったとおり、この人は悪い人なのかもしれない、と思ってしまった。
「6月9日、18時42分です」
父の容態が急変して心臓が止まった日も、学校から大急ぎで駆けつけたわたしの隣で、先生は淡々と時間を告げた。それが悔しくて、あんたのせいなのになんでそんな風に平気でいられるんだと怒りが募ったけど、そのあとすぐ悲しさが津波のようにわたしを飲み込んで、葬式が終わるまでの記憶が飛んだ。
それからあの先生とは二度と会っていない。
病院を見ることすら嫌で、近くを通る道は絶対に選ばないようにし、母を救急車に乗せたときも「あの病院だけはやめてください」と救急隊員に叫んだ。
そういうことがあったので、気持ちはわかります、とわたしはAさんに伝えた。ワクチンを打つことはやめないけど、でも、気持ちはわかります。
Aさんと話したあと、わたしは実家に帰り、母と話をした。
「パパが亡くなったあの病院の先生、ひどい人やったよな」
すると母は、とんでもない、という顔をした。
「あの先生ほど優しい先生はおらんよ。今でも名前を覚えてるわ」
今度はわたしの方が、とんでもない、という顔になった。
一体、なにがどうなっているのか。
ここからは、母が話してくれたこと。
病院に運ばれた時点で、移送をする選択肢はなかった。どんどん心臓の血管が破れていくのがわかり、遠く離れた大学病院までも保たない。自宅から生きて病院に着いたことすら奇跡だった。
先生は手を尽くして、せめてここでできるだけのことはと、大学病院から人工心肺のプロフェッショナルの先生を呼び寄せて、装着してくれた。
そのあとも、毎日のように、今は父がどんな状況で、どうなれば快方に向かい、どんなリスクがあるかをていねいに説明してくれたという。
「先生ね、パパの前で黙って号泣してたんよ。力不足でしたって。こんなに泣いてくれる先生がおるんやって、わたしは嬉しかった」
もうひとつ、衝撃的だったのは。
あの日、わたしは中学校にいて、部活の先生から「お父さんが急変して危篤らしい、車きてるからすぐに行け!」と言われて、車で五分の病院へ向かった。
わたしが到着して、一分か二分後に、父は死んだ。
でも本当はもっと早く、父の心臓は止まっていたらしい。
先生が「娘さんだけは、あの娘さんだけは、生きているお父さんに会わせてあげないといけない」と思って、心臓を動かす薬だけを大量に投与し続けて「頑張れ、頑張れ」とわたしを待っていてくれたそうだ。凄まじい執念だったらしい。
先生がいなければ、わたしは「ありがとう」とまだ生きている父に、伝えることができなかった。三十分後到着した祖父母は、間に合わなかった。
「心臓が止まったあとも、耳だけは最後まで聞こえているので、話しかけてあげてください」
病室を出ていくとき、先生がひとり残ったわたしに言ったっけな。
なんでそんな悲しいことを言うんだろうとあの時は思ったけど、先生、そのあと「力及ばずでした」って、頭を下げてたな。
先生が号泣していることを、わたしは知らなかった。先生の涙が目に入らないくらい、自分のことで精一杯だった。
誰かを恨むことでしか、わたしは、父の死を認められなかった。
父は死ぬべき人ではなかった。わたしたちは無力ではなかった。じゃあ誰が悪いんだ。医者だ。医者が父を助けられなかった。生きられるはずの、父を殺した。悲しみを乗り越えるために、わたしはそんな物語を作り上げた。
しかし、父は、死んでしまう人だった。
わたしたちは、無力ではなかった。
みんなが、祈り、手を尽くした。
先生、長い間、本当にごめんなさい、ありがとうございました。
Aさんの物語と、わたしの物語は違うので、これを押しつけることはしないし、やっぱりわたしがワクチンを打つという選択は変わらない。
でも、メッセージを送ってくる誰に対しても
「そんなわけないだろ、なにを言ってるんだこの人は」
と思うことをやめた。返事はしない。
ただ、そこに至るまでにどんな悲しみや怒りがあったのか、想像をする。誰かの代わりに言葉を書く人間として、想像をする。そうやって、この東京湾をバタフライで泳いで、生きていく。
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